第26回 医療崩壊について2

最近救急車が、受け入れてくれる病院を探せないという事態が深刻になってきています。新聞は産婦人科や小児科の問題だけクローズアップしますが、実際は内科、外科をはじめリスクを伴う科の志望が減ってきているのです。受け入れ病院が救急車を断るのは、医師が入院患者さんの処置や他の患者さんの診察に追われているということが大きいでしょうが、実際はもう少し根が深いところにあります。
最近の医療裁判の判決で、救急病院における医療レベルが高いものを要求されるようになりました。例えば、泌尿器科医である私がある病院で当直しているとしましょう。そこに救急隊からどの病院も受け入れてくれない心筋梗塞を疑う患者さんの受け入れを頼まれた場合、私は受け入れを断るかもしれません。なぜか?もし、引き受けると、本当に心筋梗塞だった場合、次の受け入れ病院が決まるまで私が責任を持って患者さんの治療をしなければなりません。私は泌尿器科医ですから、一般的な処置はできますが専門的な心筋梗塞の治療はできません。不幸にも次の搬送先が見つかる前に患者さんが亡くなられた場合、私は患者さんのご家族から適切な治療を受けることができなかったということで訴えられるかもしれません。最近の判例では、この様な場合、医療側が負けることが多くなってきました。もっとひどければ、警察に業務上過失死傷ということで逮捕されるかもしれません。善意から精一杯行った医療行為に対し、現在の仕組みや風潮は厳しいものなのです。

私は、皆さんに医療とは決して安全確実なものではなく(我々は、できるだけ安全に行おうとしていますが)、常にリスクと隣りあわせなのだということを理解していただきたいと思います。たとえ採血という医療行為でも、胃がんの手術でもリスクの程度は違いますが、体に侵襲を与えているということでは同じなのです。

その一番良い例がお産です。芸能人の出産などがテレビで取り上げられ、また週刊誌などマスコミが、どこそこの病院では、産後にフランス料理が出るとかブランド物に囲まれた病室をもてはやし、出産を結婚式と同じようなイベントに仕立てあげました。昔の出産は、お母さんの命をかけた生と死の瀬戸際で行われる行為で、不幸にもお母さんが亡くなられたり、赤ちゃんが死産であったりしたことも少なくなかったはずです。ところが産婦人科の先生の努力や医療技術の進歩で周産期死亡率(お産前後の死亡率)が良くなり、(事実日本の周産期死亡率の低さは世界一だそうです。) 赤ちゃんは元気で生まれるのが当たり前という概念が広がったため、元気で生まれなければ、産科の先生が訴えられ、お母さんが亡くなられるというような事態にでもなれば、犯罪者として逮捕される時代になってしまいました。手術もお産もどんなに一生懸命しても、ある確率で不幸な結果が出ることは皆さん理解できると思います。ある確率でジャンボジェット機も必ず墜落しますし、皆さんが運転している車も必ず事故を起こすのです。一生懸命にやったにもかかわらず結果が悪ければ、患者さんに訴えられ、逮捕され裁判にかけられる、こんな仕事が世の中にあるでしょうか?

このような不条理にやっと気がついた政府は、医療者、弁護士、患者代表、からなる医療事故調査委員会なるものを作ろうとしていますが、その内容は、ミスをした医療者を罰するという意味合いが強く、そのミスがどうして起こったのか、何を改めなければならないのかという原因追求を目的にしたものではないといわれています。

人間はミスをする生き物でそのミスから学ぶことにより成長するはずです。ミスをすることだけを罰するようになれば、誰もミスを恐れて重症の患者さんの治療や手術を行わなくなるのではないでしょうか。私たちは、患者さんに元気になって欲しいという一念で医療行為を行います。そのために何日も泊り込むなんてことは厭いません。しかし全力で行った行為に対し正当に評価されねば、医療現場には元気が戻ってこないでしょう。